「仁義なき戦い」公開40年、深作欣二没後10年を記念して東映がお届けする、「仁義なき戦い」シリーズの公式配信ページです。 (C)東映 仁義なき戦い全5タイトル配信開始! 昭和35年、広島のヤクザの中に、ある噂が流れていた。 広島最大の暴力団、村岡組の組長が体調不良の為、 引退するかもしれないと。 ヤクザ達の関心事は、誰がその後を継ぐのかという事。 様々な思惑が渦巻いていた。 呉市の山守組を脱退した広能昌三(菅原文太)は、 呉市に小さな組を構えていた。 呉の長老大久保健一を唯一の拠り所としていた広能は、 将来の為に盃外交を始める。 広能は、村岡組の幹部松永(成田三樹夫)、 武田(小林旭)、江田(山城新伍)と共に、 広島市の実力者、打本昇の … 仁義なき戦い 5作品パック 「仁義なき戦い」「仁義なき戦い 広島死闘篇」「仁義なき戦い 代理戦争」「仁義なき戦い 頂上作戦」「仁義なき戦い 完結篇」が期間中、見放題となるお得なパック※但しいずれかの課金コースに入会している必要があります。 ここが一番豪華な出迎えだよね 安いから小さいのですか? ». 『仁義なき戦い 代理戦争』(じんぎなきたたかい だいりせんそう、Battles Without Honor and Humanity: Proxy War )は、1973年(昭和48年)9月25日に東映で公開された日本映画。仁義なき戦いシ … !」と引きつるように泣いたという[140][141]。小沢仁志はこの梅宮のヤマケン役の顔について「(梅宮さんの)昔の映画観てみろ。『仁義なき戦い』とか。恐ろしい。あれで30代だぜ」と評した[142]。梅宮は山本とは本作以前から付き合いがあり[143][144]、「あの人に恥かかしちゃいけねぇなという想いはありました[144]」、「今は問題があるかもしれないけど、ヤクザの役を演じるんだったら同じメシを食い、同じ酒を飲み、時にはソープにも一緒に行くような…。そんな"匂い"を吸収するのも大事なことだったんだよ[143]」、「いまホントにヤクザと付き合うとすぐ叩かれるでしょ?だからみんな付き合いもできないし、やってもコソコソするしかないんだよ。でも僕らのときには大っぴらにね[145]」などと回想している。一方で「みなさんの中で役者・梅宮辰夫は『仁義なき戦い』の印象が強いかもしれないけど、僕の真髄は不良と女たらしを兼ねた『不良番長シリーズ』なんですよ」と述べている[146]。, 第三部『代理戦争』、第四部『仁義なき戦い 頂上作戦』に優柔不断なヤクザの代表格として登場する加藤武演じる打本昇のモデル・打越信夫は、実際は事業家として先見の明があった人物で、解散危機にあった広島カープ存続にも貢献している[147]。プロ野球が庶民の娯楽になることを見越し、1950年(昭和25年)に発足した広島カープの後援会(鯉城後援会)を作り広島カープのタニマチとなって、広島市民球場(1957年開場)の警備、自転車預かり所、売店などの運営を一手に引き受け新たなシノギを開拓した[147]。鯉城後援会には広島の財界人がみんな入っていたという。有名な「たる募金」を組員によくやらせていたという。「カープのためによろしくお願いします!」と球場前でお客さんに頭を下げていたのは打越の組員だったのである[147]。劇中に出てくるタクシー会社の設立も同時期の1954年(昭和29年)である。ただしモデルになった会社、及び後継会社も現在は廃業しており現存しない[148]。加藤武演じる打本昇役は、ヤクザの親分でありながら戦争(抗争)が嫌いで、それを回避することばかり考えている[149]。湾岸戦争の頃に行われたインタビューで加藤は「フセインなんかも打本を見習ってもらいたいですな。そしたら戦争にはならんでしょう」と話した[149]。加藤武は、"小"山守というべきこの打本昇役を、今まで演じた中で最も気にいっていると述べている[150]。, 『完結篇』で広能の留守の間に若頭として広能組を守る伊吹吾郎演じる氏家厚司のモデルになった人物は、南海ホークスに所属したプロ野球選手[151](一説には元南海の薮内威佐夫とある)。ただ、経歴からか「プロ野球人名録」などにも現在この人物の記載はなく、調査するのが困難な状況になっている。, 登場人物のモデルは大半が実在の人物で関係者が見れば誰が誰なのか一目瞭然のため、初公開時には映画を見た当事者達から大変なクレームを受けた。映画なのでより劇的にキャラクターを膨らませたり、話を面白く脚色するのは当然なのだが、それを理解できない人達からクレームがあった。「事実と違う」とか、「ワシはそがいなこまい男じゃない(私はそんなに肝の小さい男ではない)」とか、現役で周りの子分などに格好がつかない人達もいたようである[152]。中には「ワシが出とらん(私が出ていない)」というのもあったらしい。『仁義なき戦い』が劇場公開される前に、京都本社の試写室に山口組三代目の田岡一雄組長が訪れて鑑賞したが、後に間に人を立てて親分が岡田社長に伝えた内容は「よう(広島の)若いモンがだまっとるこっちゃ。もしワシの事だったらシシャが行くがな」だったとされる[41][54][153]。この"シシャが行く"の意味は未だ謎である。逆に「お蔭で息子も浮かばれました」と亡くなった人物の母親から感謝されることもあったという。この母親をモデルに創作したのが、第三部「代理戦争」で渡瀬恒彦演じる倉元猛の母親で、名前は第一部を観て笠原に電話をかけてきた倉本聰をもじったものという[154]。美能幸三は第一部封切りのあと「おっ母さんが泣いて喜んでくれた」と笠原に電話してきたという[155]。「ヤクザ映画最悪のヒール」として描かれている金子信雄演じる山守義雄こと山村辰雄の場合は、同じくヒールとして描かれた姐さんが撮影現場を訪れ、役者と談笑していたというから、山村はしょせん映画は映画と考えていたのではといわれている[156]。この他、広島抗争で重要な役割を果たしたといわれる波谷守之は「仁義なき戦い」五部作にまったく登場しないが、波谷をモデルにした『最後の博徒』では、別角度から見た「仁義なき戦い」が描かれている[157][158]。, 五部作を通して金子信雄が扮する山守義雄親分の妻・利香を演じた木村俊恵は、劇団俳優座の女優だが映画界では地味な存在であった。この作品で時に夫・山守との絶妙のコンビプレーで子分を翻弄、時に山守の尻を引っぱたくモーレツなおかみさんを演じたが[125]、五部作の撮影終了間もない1974年(昭和49年)5月、俳優座の公演中に過敏性腸カタルで倒れ、一旦回復したが同年7月26日、急性心臓死のため39歳で亡くなった。奇しくもこの日は、一年前から生活を共にしていた中谷一郎と晴れて結婚式を挙げる予定の日だったという[159][160][161]。, 子供の頃から歌手志望だった松方弘樹は、波多伸二のロケ中の事故死による穴埋めで父・近衛十四郎に説得され17歳で俳優デビュー。1本だけの約束が東映の大量生産の煽りで次々と作品が決まり断れず、明けても暮れても撮影の日々。出演作は軒並みヒットしたが、演技に厳しい父は全ての作品にダメ出しし一度も褒めてくれなかった。やる気を失い、役者を辞めて遠洋のマグロ漁船に乗ろうなどと考えていたところを父に一喝され踏み止まったものの、このまま役者を続けていく自信もなかったが、30歳の時、この映画の第一部・坂井鉄也役に巡りあい変わったという。壮絶なシーンの連続に役者の醍醐味を味わい、演じることの面白さが実感できた。演技力にも自信が生まれ、ようやく父に褒めてもらえると思った矢先、父は亡くなった[162]。本作の演技で倉本聰に惚れられた松方は、大河ドラマ『勝海舟』で病気降板した渡哲也の代役をオファーされた[163], 第一部の梅宮辰夫扮する若杉寛が情婦(中村英子)の兄の学生服を着て「おい、テンプラがバレゃぁせんかのぉ」と言うシーンの撮影で、見学していた社長の岡田茂が広島出身であることから「違うぞ、辰!バレゃぁ、じゃのうて、バレやあ、って上げてみろ」と指摘し、梅宮は岡田の言う通りに演じた[164]。「よし、それでいい」とOKをもらい、このセリフは岡田直伝の広島弁となる。中村は第三部『代理戦争』で室田日出男扮する早川英男の妻も演じたが、色白で上品な美人女優で「第二の藤純子」と期待されていた。映画の公開まもない1974年に山口組三代目田岡一雄の息子で、プロデューサーの田岡満と結婚して芸能界を引退。しかし1年後、子供を残し24歳で自宅でガス自殺[165]。ヤクザ映画の会社に入ったばかりに、という声もあって、中村の亡霊が撮影所に現われると一時噂が立った。「幽霊でもいいからカムバックしてもらいたいよ」と中村を育てたプロデューサーは嘆いていたという[166]。, 田中邦衛は「『狂犬三兄弟』とか『仁義の墓場』とかはね、納得してやれたんだけど、『仁義シリーズ』は自分の演技は全然よくないですよ。圧倒されちゃうんですね、拓ちゃん、室田さん、勝なんか存在感あるもん。でも子分ばかりやってたんで、街を歩いていたら、やくざから『お前よォ、オイ』って来られるんですね。兄貴ヅラされちゃう。安部徹さんなんかだとやくざも、やっぱ頭下げちゃうんだそうですけど。京都でやくざ風の二人に囲まれてね、橋の上で親しげに寄って来て両脇に手ェ入れられてね。どうやって撒こうかって『ちょっと待てよお、俺、小便すっからヨオ』って、やくざっぽく凄んで小便してたら、いきなり橋から突き落とされたんですね。で、後がまた酷いんだよ。東映の連中にその話したら『小便の中に落ちたのか』とか『チンポコはどうした』とか全然心配してくれないの。参ったよ」などと話している[167]。, 第一部のナレーション、第二部『仁義なき戦い 広島死闘篇』と第四部『仁義なき戦い 頂上作戦』に出演した小池朝雄は「当時『刑事コロンボ』が当たっていたから」という理由で日下部五朗にキャスティングされた[168]。, 『広島死闘篇』から出演する北大路欣也は第一部を仕事先の沖縄の映画館で観て共鳴し[169]、シリーズ化の決定を知り直訴して第二作『広島死闘篇』に出演が決まった[170]。しかし上述(#登場人物)の通り当初キャスティングされた大友役を拒み、東映幹部ら(日下部など)に仲介させ、千葉真一と配役を交換させている[128]。北大路が千葉とのキャスト入れ換えを要求したのはこれが初めてでなく、1963年の映画『海軍』に続いて2度目となるが、北大路は戦前からの大スターで東映の役員を兼務していた市川右太衛門の御曹司であることから、東映は北大路の意向を幾度となく受け入れてきた[128]。, 『広島死闘篇』で村岡組のチンピラに扮した川谷拓三は、大友組にリンチを受けて両手首をロープで縛られて海をモーターボートで引き擦りまわされるシーンで、スタッフが「衣装も濡れるし、ボートを勢いよく走らせれば、水上スキーのように海面を滑るんじゃないか」とテストなしで川谷を海へ放り込むが、クルクル回り海底へ沈んだ[171]。海水をたくさん飲んで失神、あわてて引き上げ心臓マッサージを施され、なんとか息を吹き返した[163]。この後宙吊りされ射撃の的で惨殺されるが、普段の川谷は酒浸り身体を鍛えてないため撃たれたときの反応がうまく演じられずに撮影が進まない。深作欣二からアドバイスを求められた大友勝利役の千葉真一は自ら木にぶら下がり「拓ボン、ドーンと音が鳴った瞬間に、左の脇腹に気を集中させて両足をクッと出してみな」と死んでいくチンピラの手本を演じて見せた[138]。こうした命がけのシーンを川谷はこなしていき、認められていくこととなる[163][172]。川谷拓三の息子・仁科貴は、「どこに出てるんだろう」と子供の頃、父親の出ている映画を見漁ったというが、はじめて父親のこの映画のリンチシーンを観たときは、背筋が凍るほど怖かったと話している[173]。この役をやるため、深作監督から「ちょっと痩せたほうがいい」と言われたため、川谷は塩をかけたきゅうりだけを毎日食べてひたすら走り、20日間で15キロ体重を落として撮影に挑んだという[173]。ピラニア軍団の中でも酒グセの悪さで川谷と1、2を争うといわれた志賀勝が、最も強い印象を残したのがシリーズ4本目の『頂上作戦』。ヤクザの親分の温泉での同窓会に現れ[注 5]、恩師や同級生が見ている前でその親分を惨殺して[174]、「あんたら見とった通りじゃ」と身も蓋もないセリフを吐くシーンである[175]。志賀は「誰に会っても、あのヒットマンの役って言われるんだよ。自分の中では、そういうシーンもあったなあ...くらいだけど」と話している[175]。, 『広島死闘篇』で美能組の組員として出演する前田吟は、国民的映画『男はつらいよ』で、さくらの夫・諏訪博役として善良なイメージで有名であるが[176]、前田は昔から東映映画のファンで、「むしろ松竹の方が、自分が出るイメージがなかった」と話している[15]。前田も第一作を映画館で観て感銘を受け、深作から直々に出演のオファーがあり、念願の東映映画出演を果たした[138]。なお、前田は、ジャーナリスト側から見た「仁義なき戦い」といえるテレビドラマ『ある勇気の記録』(NET、1966年10月〜1967年1月)に出演しており、双方の視点で演じた貴重な役者となる[15]。『広島死闘篇』での前田の最大の見せ場である時森勘市(遠藤辰雄)を殺害するシーンで、ドアの隙間から封筒が引き抜かれた瞬間、銃弾を浴びせるというアイデアは前田が出したものという[15]。『男はつらいよ』では渥美清であろうと誰であろうと一切のアドリブは許されないため、非常に貴重な体験だったと話している[15]。, 『広島死闘篇』から出演する山城新伍はテレビ時代劇『白馬童子』で茶の間の人気者になったが、大衆娯楽がテレビのブラウン管に移り、萬屋錦之介や大川橋蔵などの大スターがテレビの時代劇に出演するようになると、実績と貫禄不足の山城は行き場を失い、ニュー東映の時代劇映画の脇役に回った。深作はこのシリーズ中、強面の主役のかげで、巨大暴力組織や警察に軽妙な機転で迎合しつつ、鋭い反骨の気概を失わずしたたかに生き抜いていくコメディリリーフ的な役柄として、山城に新しい光をあてた[177]。「僕は実家が京都の町医者だったから、戦後に女性のいろんな所を触った手で目をこすってトラホームになったヤクザが、家の病院に来ていた記憶がある。だから僕はあのシリーズで、江田役を演じた時に眼帯して出たんです。当時の風俗を出すためにね。あの頃、本物のヤクザが集まってきたら、自分のところの身内の者に『おう、兄弟』って言うわけです。それを聞いているうちに、役者にも移って『兄弟、兄弟』って呼び合うようになって。まあ楽しい時代だった。毎日が祭り。この祭りが、終わらなければいいと思ってました。今はもう、出来ないですね、最近でも若い奴らが亜流で広島ヤクザ戦争を描いた作品があったけど、観てられない。だってあの時の僕らにとって『仁義なき戦い』は最後の砦みたいな映画だった。時代劇が当たらなくなった。任侠映画も衰退してきた。どうするんだと。やけくそで、実録路線で行けと。そうやって、自然と結束していったんですよ[178]」と述べている。, 『広島死闘篇』に出演した大部屋俳優の福本清三は拳銃を分解して手入れをしている時に山中正治(北大路欣也)に踏み込まれ、パニックに陥り思わず弾倉の入っていない拳銃を向けるが、これは福本のアイデアが採用された[179]。この後、至近距離から山中に44マグナムを撃ち込まれ、座った状態から跳ね飛び上がって死ぬシーンでは、深作はハリウッド式にゴムを装着して後方に引っ張って飛ばし、被弾の衝撃を表現しようとしたが、殺陣師の上野隆三から「彼は体にバネがあるからゴムはいらんよ」と進言を受け、福本は身体能力だけで見事に吹っ飛んで見せた[179]。, 第三部から参加し貫禄充分な芝居を見せる小林旭の出演経緯は、1972年の『ゾロ目の三兄弟』で東映初出演した後、俊藤浩滋が、鶴田浩二、高倉健、若山富三郎と小林の四人で正月映画をやりたいと企画し、俊藤が小林が留守のときに小林宅へ訪ねて来て「東映での面通しや」と言っていたと聞いて、「こっちは日活で看板張ってやってきた。今さら面通しもねえだろ」とカチンと来て、その話を蹴った。ちょうど歌がヒットしていて歌のスケジュールが一杯で毎日帰りが遅く、小林が家に帰って来たところに俊藤がまた家に訪ねて来ていて、ちょうど帰り際で、すれ違いざま、「あんたは映画俳優やないわい、ウタ唄いや」と捨てゼリフを吐いた。しかし後で、俊藤の中に路線が敷いてあり、その正月映画の後、『仁義なき戦い』で小林を主役にしたい構想していたと知り、「悪いことした、どっかで借りを返さなきゃ義理が立たない」と思っていた頃、「代理戦争に出ないか」と話が来たんで、「いいですよ」と喜んで返事した。「俺も神戸から西のホンモノのことはよく知ってたし、モデルになった人とも会ったりして、人物を色々膨らませてあの役をずいぶん煮詰めていったよ。撮影で拓ボンを締め上げるシーンで、思いっ切り壁に叩きつけたりした。それで拓ボンが飯の席でケンカを吹っかけてきたこともあったな。東映の立ち回りはそこまで本気でやらなかったんだろう」などと話している[180][181]。, 第五部『仁義なき戦い 完結篇』で再登場の大友勝利を演じた宍戸錠と敵対する市岡輝吉(松方弘樹)が料亭で対峙するシーン、2分半の長回しは語り草となっている[125][182]。〈牛のクソにも段々があるんで〉の名セリフでも知られるシーンだが[183]、激昂した宍戸がテーブルの小皿やグラスを左腕一撃で払いのけると、宍戸の左腕の静脈がばっさり切れた。血がビューッと噴き出て、テーブルいっぱいに血が広がった。宍戸は酒を飲みすぎていて血が止まらない。松方の隣にいた女優がそれを見て失神した[163][172][184] カメラが流血をうまく追いきれなかったのが残念であるが、〈牛のクソにも..〉のセリフは、高田宏治のシナリオにはない宍戸のアドリブだという[184]。失神した女優は松方がしっかり介抱した[163]。宍戸がこの完結篇に出演した経緯は、同学年で同じ宮城県出身で、学生時代から付き合いのあった菅原の誘いだったと思うと話している。宍戸は日活出身というプライドから東映の映画は嫌いで、仁義なき戦いシリーズも1本も観たことがなかったと話している[184]。五部作のうちの四作に出演した曽根晴美は『完結篇』には出演予定が当初なかったが、松村保(北大路欣也)と江田省一(山城新伍)が関西で襲撃を受けるシーンのロケが兵庫県尼崎市で行われると聞いて[注 6]、「俺は尼崎の出身だから、やらせてくれ」と深作に直訴して殺し屋の役を勝ち取った[172][186]。同シーンは踏切で挟まれたところで車を襲撃するという撮影のため、許可を取らない(取れない)ゲリラ撮影であったが[163] 電車が近付いている時、突き切ろうとした車のタイヤが溝に落ちた[172]。深作が「電車を止めろ」と無茶を言い出したが[186][187] その場にいた尼崎の若いヤクザらが、非常灯を振って阪神電車を止めてくれたおかげで無事撮影ができたという[188]。本シーンは許可だけでなく、リハーサルもなく、撮影前、黒板にチョークで段取りを書いて「こっちが無線で合図したら撃ってくれ。遮断機がどうなろうが逃げて渡り切ってくれ。俺らはビルの上からカメラで追うから」と、ただそれだけ言われた。八名信夫は「あんな怖い思いはしたことがない」と話している[163]。殺し屋の役の曽根は、何秒しかない間に撃って殺して逃げないといけないから、下なんて見ている暇がなくてひっくり返り、近所の医者に行ったら膝の骨が折れていたと話している[189]。当時は何もかも大らかで、ロケは無許可でやることが多かった。また当時は警察もゆるくて、撮影で使うピストルを、近くの警察署が本物を貸してくれることもあったという[163]。, 「電柱1本、犬1匹まで画面に映ったらすべて主役」が深作監督の口ぐせであった[175]。普通の任侠映画では、主人公以外は絶対的に脇役であるが、深作は『仁義なき戦い』で脇役にも光を当てた[163]。それまでのスターシステムを廃した演出に燻っていた無名の大部屋俳優、若者たちが跳ねた[175]。『仁義』に出た役者は、みんなこの映画で個性を爆発させて上昇気流に乗せた。『仁義』以前は大半の役者が無名であった。片桐竜次は「僕ら若手の俳優は、皆、『仁義』が出発点」と述べている[175]。, 近年、『仁義なき戦い』のキャラクターを自身の職場の上司や同僚に当てはめる企画が増えているが[190][191]、これは『仁義なき戦い』がキャラクターの宝庫であり[192] 世間に存在するありとあらゆるパターンの人間像が描かれているためである[193]。『仁義』ファンは人によって好きなキャラクターが違うが、杉作J太郎は「そういう意味で『仁義なき戦い』は、ある意味、モーニング娘。やAKB48と同じ、グループアイドルとしても見られる。たとえば『広島死闘篇』の大友勝利の千葉ちゃんは、モーニング娘。でいえば、後藤真希のインパクトでしたね。加藤武は、AKB48のまゆゆ」などと、『仁義なき戦いAKB48説』『仁義なき戦いモーニング娘。説』を唱えている[125]。, テーマ曲はベースリフが強烈なグルーヴを噴出させる津島利章作曲によるテーマ曲は、シンプルなメロディでありながら非常に高い演出効果を上げあまりにも有名だが[194]、バラエティ番組で修羅場になるシーン(ヤクザや怖い(役の)人が出たり、武闘派タレントが激怒したり、また出演者の間で喧嘩が始まるなど)ではこのテーマ曲がよく流れて定着している。日本で最も使われている効果音ともいわれる[12][195]。『キネマ旬報』「オールタイム・ベスト映画遺産 (映画音楽編)」でも「映画音楽が心に残る映画ベスト10」で、日本映画唯一のベスト10入り(9位)している[196]。崔洋一は、日本映画の優れた劇伴の例えとして『仁義なき戦い』を挙げ、「津島利章の曲がなければ、『仁義なき戦い』はここまで評価されたかどうか。あの旋律を聴くことで、あの映像が浮かんでくるということもあるわけです」と話している[197]。, 撮影の吉田貞次は、満映時代にニュース映像などを撮っていた人で、何度か登場する実際の商店街でのドンパチのシーンは「ニュース方式」、所謂「ゲリラ撮影」で行われた[198]。他の場所で何度もリハーサルを重ねて、それを現場に持っていき、役者・スタッフとも映画人のような格好はしないで、カメラも隠し、一斉にアクションをかけ、それをカメラがニュースのようにつかまえていく。役者もどこにカメラがあるか分からないから、初めからおしまいまで本気でやる。ときには役者とカメラがぶつかることもあった。カメラは手持ちの小さい物で、アクションに紛れるとカメラがあるかどうかはわからない。現実の商店街でこれが急に始まるので、通行人も本物のドンパチと信じ込み、怯えたり狼狽えたりする通行人の芝居でないリアクションが撮れた。当然110番通報される場合もあり警察に絞られることもあった。第一部で三上真一郎扮する新開宇市が駅のホームで刺殺されるシーンは京都駅でのゲリラ撮影[198]。本来は許可を取ってやらないといけないが、許可が出るわけないので内緒で撮影し、助監督が捕まってさんざん油を絞られている間に他の者は逃げたという[198]。, 第一部の撮影が終わり、編集段階になって深作が「この映画のラストカットが欲しい。広島に行ってそういうカット撮ってきてくれ」といわれ、吉田と撮影スタッフだけで日帰りで広島に行き、撮影したのがシリーズ中、繰り返し出てくる原爆ドームの映像[199]。原爆ドーム前にホテル(「広島の宿 相生」と思われる)があって許可をもらってそこから撮影したという[199]。また第一部で土居組との抗争がエスカレートし、今後どうするか山守組幹部が山守宅に集まり、山守夫妻を囲んで話し合うシーンで、広能と若杉が「ここにおるもん(幹部)で今から土居組に殴り込みかけちゃろう」と号令をかけるシーンで、新開が「ここんとこ体の調子が悪うて働けるかどうか」、矢野が「ワシャ、他にも手があると思う」、槇原が「ワシャ死ぬゆうて問題じゃないが女房の腹に子がおって、これからのこと思うと可哀そうで、可哀そうで」などと、行きたくない言い訳を繰り返すが、これらは、それまでの任侠映画では決してお目にかかれなかったシーンであった[200]。, 深作は『深夜作業組』の略という逸話で知られるほど、撮影が長いことで有名であったが[201] このシーンは、向こうの人物とこっちの人物のフォーカスが上手く合わず「リテイク」「リテイク」の連続で撮影に8時間を要したという[200][202]。本作の出演者はアフレコのヘタな人ばかりで、さらに慣れない広島弁。深作がOKを出しても、横にいた方言指導の人が「ここが違う、ここがこう」などと言い出すから、またやるの繰り返しで気が狂いそうになったと深作は話している[78]。, 美能幸三は「週刊サンケイ」の連載や映画化にあたり、正式な契約を結んでいない[2]。あくまで了承・黙認だったため、美能に対する原案料は0円である[2]。だが何の見返りもなかったわけではなく、美能は東映の衣装を払い下げてもらい貸衣装屋を始めた。映画で付き合い始めた俳優との交流も続き、それを足がかりとして冠婚葬祭場、ホテル経営へと拡大させ実業家として成功している[2][44]。「美能」という名前が目立つため、裁判所にいって名字を変えていた[2]。高岩淡は美能が事業を始めた際に便宜をはかり、それが縁で美能が亡くなるまで付き合いがあったという[44]。美能は2010年(平成22年)3月17日に亡くなったが、その数年前まで時折雑誌のインタビューに答えていた。このうち、2003年(平成15年)出版された『東映実録やくざ映画 無法地帯』(太田出版)の中では、驚愕の事実を話している。『仁義なき戦い』は実録・実話と銘打っているものの娯楽映画であるため、ある程度のフィクションの加味は仕方ない。しかし美能は山村辰雄に盃をもらっていないという。「私は山村の子分ではない。盃をもらった親分は一人もいない。第一、山村と親子の盃をしているなら、ああいう手記は絶対に書かん。私は山村の七人衆と言われていたが、山村組に入ったことはない。山村が私のことを「アレはウチの若い衆じゃ」と言うから、みんな、そう思っていただけの話。私はあの人から世話になったことは一遍もない。みんなで集まったということもないし、ただ山村のとこへ出入りしていただけだったというのが本当のところで『組』というほどのものではなかったんだ」と話している[203]。『仁義なき戦い』は、山守と広能の親子関係が大きなテーマとなっているが、これでは根本的な設定からしてフィクションになってしまう。ただ、戦後の混乱期にはセレモニーとしての盃事を執り行った組織は少なかったといわれ、盃事がなかったからといって親分でなかったとは言い切れない[2]。, また、美能は広島抗争について「実話時代BULL」1998年3月号の門広・石谷綱朗との対談で、「わしはのう、手記の中で一つ肝心なことを抜かしといた。それは海生さんのことでのう、『わしのことだけは書かんでくれ』と頼まれて伏せたんじゃ、門はすでに海生さんは引退しとったと思うとったかしらんけど、海生さんはまだ現役で呉に君臨しとった。わしは安原さんが持ってきた話で、1963年の4月22日に山本さんと、小原光男さんも加わって3人の盃をする予定をしとったんじゃが、亀井貢が殺されて延期になり、5月に内輪だけで盃をしたんよ。そのときは海生の親分が山村を押さえるために山口組の顧問になるという話もほぼまとまっとったんじゃ。それ書いとったら、抗争事件のいきさつと全容がようわかるんじゃがのう。細かいいきさつを言やぁきりがないが、結局は打越対山村ということじゃが、これに海生さんがいっちょ噛んで来たことが決定的になって、いっぺんに火が噴いたということよ」などと話している[204]。, 本職のヤクザが撮影に出入りして演技指導をしていたと多くの関係者が証言している[1][163][205][206][207]。深作は「俳優の中に本物もいた」と話している[208]。伊吹吾郎は「賭場にしろ、手打ち式のシーンにしろ、たいがいは親分が後ろで見ていて、若い人が手順を披露する。ところが、ずらりと並んだ役者に照れがあるのか、少しおちゃらけた感じになる。すかさず親分から『バカヤロー、ちゃんとやれ!』って罵倒される。僕ら役者は、その声を聞くだけでビビってしまうものでしたよ」と述べている[206]。若い頃(1980年前後と見られる)、一年の3分の2を京都撮影所内にある寮で暮らしたという真田広之は[209]、楽屋に本職の人が「ヤァ、お若いの、元気でやってるか」とよく入って来たが、全然大丈夫で、「むしろ守られている」という感じだったと話している[209]。映画の主要キャストにはそれぞれモデルとなった人物がいて、多くが存命でヤクザが撮影をチェックしに来ており、監督である深作がOKを出しても彼らがストップさせることもあったという[143]。東映京都撮影所の俳優会館は[210] 本作がシリーズ化され撮影が始まるとヤクザが出入りして異様なムードに包まれたといわれる[211]。日下部五朗は「監督、脚本、役者、時代、あらゆる意味で今じゃつくれない映画だった」[163]、梅宮辰夫は「だいたい『仁義なき戦い』撮ってる頃は、撮影所はいっつもヤクザでいっぱいだった」[145]、山城新伍は「梅宮辰夫が眉毛を剃ったり、小林旭が常にサングラスをかけて出たりしているのは、役のモデルになった本物のヤクザの人が、毎日撮影を見にきているからなんです。そうすると、メイクや扮装もモデルとそっくりにしてね。みんな、そうですよ。撮影現場では、役者かヤクザかわからなくなってしまって(笑)」[178]、松方弘樹は「『仁義なき戦い』以降、太秦はガラの悪いのが増えた」[212] などと証言している[1][163][205][206][207]。深作健太と仁科貴は「僕たちも実録やくざ映画を撮りたいけど、どんどん難しくなっている」[213]、深作健太は「本人の意図とは別に『仁義なき戦い』が撮れた時代性があります。1970年代に入って映画が完全にテレビに負けた時代だからこそ、実際のヤクザの抗争事件をテーマにエンタテイメントが作られたのだと思います」と話している[213]。松方弘樹は『修羅の群れ』(1984年)の次の年に『戦争と平和』という警視庁と合田一家の話を勝新太郎と一緒にやろうと衣装合わせまでしていたが、警察から岡田社長へ圧力がかかってダメになり、それぐらいからヤクザ映画が撮れなくなったと話している[212]。, 『仁義なき戦い』が興した「実録路線」はさまざまな副産物を撒き散らした[214]。京撮次長だった翁長孝雄はクレーム処理を一手に引き受けた。笠原は「仁義なき戦いシリーズ」において、山口組を架空の「明石組」と名を変え書いたが、明石組は神戸の新開地にれっきとして実在した[214]。明石組は「社長宅を爆弾でぶっ飛ばすぞ」と岡田社長を脅し、翁長は「何とかせい」と岡田に命じられた。翁長は友人である兵庫県警の刑事に連絡し、事態を憂慮した刑事が見張る中、組事務所に単身乗り込んだ。「今回の映画で組の名誉がどれだけ傷つけられたと思う?

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